燕三条伝統産業

伝承される技の世界

金属加工の技が時代とともに発展

明治時代に入って洋釘が輸入されるようになると、和釘の生産は大きな打撃を受けた。しかし、産業の命は途絶えず、職人らの技術はさらに多様な金属産業の発展につながっていく。燕では江戸時代中期に伝えられていた鎚起銅器の製法と、近郊の山から優良な銅が産出されたことから、銅器やヤスリ、煙管、矢立など、別の金属加工行へ転換。こうして枝葉を広げた金属加工技術は、大正時代に入ると洋食器の生産に生かされ、発展を遂げていった。

鎚起銅器の美と心にふれる
一枚の銅板が美しい命ある道具に変化

1764年から1771年(明和年間)に仙台の銅器職人・藤七が燕に移住し鎚起の技術を伝えたとされ、以後200余年に渡り数多くの鎚起銅器職人を有する地域である。

鎚起銅器とは?

板状に延ばした銅板を金槌・木槌などで打ち伸ばしたり、打ち縮めたりして器を造形していくものである。職人が一枚の銅板をたたき上げ生み出された急須や花器は、手仕事ならではの優しさと温もりにあふれ、その独特な色彩は使うほどに光沢を増すという。明治期には更なる技術研究が本格的に進められ、現在では美術工芸品の域にまで達している。
「用の美」が生み出される手仕事の息吹を感じてみよう。

金属加工技術の花開く今も衰えない輝き

和釘づくり以来幾多の業種や分野にわたる変遷を経て、長い年代培ってきた金工技術の評判により、明治44年東京から高級洋食器製造の以来を受けたことが燕の洋食器産業の始まりであるとされている。まだ当時はノコギリとヤスリ、鎚による手作りであった。
後に第一次世界大戦の頃、ロシアから洋食器の大量注文が舞い込み、燕の鍛冶職人たちは一斉に製造に追われ、このことが洋食器量産化への転機となった。やがて動力機械が各工場に設置され、大量生産へと転換すると、飛躍的な発展を遂げた。
ところが、日中戦争がはじまると海外への販路が狭まり、さらに戦局の悪化で、技術保存のための数社を残して生産の全面禁止へと追い込まれることとなった。
しかし戦後は、進駐軍から2万世帯分の金属洋食器の注文を受け、活気を取り戻し、ついには日本の金属洋食器生産額の9割を占めるようになった。また、アメリカとの貿易摩擦が問題になると、プラスチック柄のスプーンの開発など、新しい活路を見出していった。
こうして、燕の洋食器産業はめまぐるしく変化する世界の政治・経済情勢の影響を受けながらも発展を遂げてきたのである。

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